マレーナ / Malèna - ★★★☆☆

[ストーリー]

見つめるだけで、あなたを守るつもりだった……。

私がマレーナに初めて会ったのは、戦争が始まってまもない1940年の晩春、12歳半の時だった。シチリア島の眠ったような漁村カステルクトの、長く続く海岸通り。その日、私は初めて自分の自転車を手にし、年長の悪ガキたちと並んで,彼らの密やかな楽しみ、村で一番美しい女マレーナを見る儀式に参加したのだった。

マレーナは海岸沿いの家に一人で住んでいた。結婚してたった2週間、夫は徴兵されて戦線に送られていたからだ。マレーナは毎日午後、その家を出て海岸通りを歩き、カステルクトの中心街に消えていった。

「あいつが来るぞ」。仲間の一人が叫び、私たちは突堤に一列に並んで待った。やがて、ゆっくりと彼女が姿を現した。彼女を白いドレスを着ていた。開いた胸元から白い喉の窪みが見えた。透き通るように白い肌に黒い髪。動きにつれて彼女の美しい曲線があらわになった。その曲線の太腿あたりにコーヒー豆ほどの小さな膨らみ。ガーターのとめ金だった。私の目はそこにくぎづけになった。

その日、私は恋に落ちた。私はまだ半ズボンをはき、マレーナは20歳を過ぎた成熟した女だった。が、マレーナはその日から私の唯一の女として私の心に居座ったのだ。しかし、その頃のマレーナは子供の私など眼中になかったろう。町中の男たちから注がれる熱い視線さえ無視して、戦線にいる夫を想い、目の見えぬ父親の世話をしていたのだから。私はそんなマレーナを影のように追い、彼女の家の窓の隙間越しに深夜ひとりでいる彼女を盗み見し、自慰にふけった。黒いスリップからこぼれる豊な乳房、細い足首、明かりに透ける太腿……それは時に、私を誘うマレーナの妄想を生んで、ついには彼女の庭の洗濯場から盗んだ小さな肌着を被って寝る事件に発展し、家族中のひんしゅくをかった。

戦局は慌ただしく、この小さな村にもナチがやって来て、やがてそれがアメリカ軍にとって代わった。敗戦とともに平和が訪れようとしていた。が、そんな中で、マレーナの夫の戦死が伝えられ、マレーナの悲劇の人生が幕を開けた。未亡人となった彼女を巡って起きた刃傷沙汰をきっかけに、弁護士の愛人になった彼女は、次にナチ将校に弄ばれ、米軍の玩具となって、転落の果てに、村の女たちの暴行を受け、髪を切られ、殴打の末、ほとんど裸同然で村を追われた。

長ズボンをはくようになった私は、そのすべてを胸張り裂ける想いで見つめていた。悲しくもマレーナを想い続ける私の心を打ちのめすように、村には堕落の女マレーナへの悪評だけが残った。

そこへ帰還したのが、戦死したはずのマレーナの夫だった。重い病の彼を襲ったのはあまりにも酷すぎる妻の恥辱。誰かが彼を救わなければならなかった。マレーナは本当はただ一筋に夫を愛していたのだと。それができるのはマレーナを見つめつづけた私だけだった。

私はマレーナの夫に手紙を書いた。「マレーナはあなただけを愛していた」のだと。私はそうして、結局、汚濁の中にいる“私のマレーナ”をも救ったのだった。

[キャスト]
モニカ・ベルッチマレーナ・スコルディーア)

本作の少年にとって“永遠の女”を演ずるモニカ・ベルッチはまたトルナトーレ監督にとっても“永遠の女神”だったようだ。ペルージャ大学で法律を学んでいた学生時代にモデルの仕事を始め、“イタリアの宝石”と言われる国際的なスターモデルとなる。90年、テレビの連続ドラマ『Vita Coi Figli』にレギュラー出演、お茶の間の人気者に。同年『La Riffa』で映画デビュー。が、すぐにハリウッドに招かれ、91年『疑惑に抱かれて』でジーン・ハックマンと共演。92年フランシス・F・コッポラにピックアップされて『ドラキュラ』に出演する。最近の出演作は『ドーベルマン』(97)で、欧米を舞台に活躍しているが、ドルチェ&ガッバーナのCM出演を機に演出のトルナトーレ監督に出会い、同監督が長年あたためていた『マレーナ』(2000)でマレーナの役を演ずることに。96年、俳優の


[スタッフ]
監督・脚本・・・・・・・・・・・・・ジュゼッペ・トルナトーレ
原作・・・・・・・・・・・・・ルチアーノ・ヴィンセンツォーニ

ジュゼッペ・トルナトーレ (監督・脚本)

ニュー・シネマ・パラダイス』(89)の成功以来、次作がもっとも待たれるイタリアの監督。1956年シチリア生まれ。まだ学生だった16歳の時に2つの舞台監督をすると同時に短編映画『イル・カレット』を作り、早熟な才能を開花させた。その才能がRAIテレビ局の目にとまり、79年、23歳の時にはすでに『Portrait of A Theif』『フランチェスコ・ロージとの会見』などテレビフィルムを次々に制作。82年には、『シチリア少数民族』でサレルノ映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞。86年、『“教授”と呼ばれた男』で映画デビュー、イタリア・ゴールデングローブ賞新人監督賞を受賞。89年『ニュー・シネマ・パラダイス』を作って同年カンヌ映画祭で審査員特別賞。89年アカデミー賞外国語映画賞を受賞。90年『みんな元気』の後、一時ヴィスコンティ、デ・シーカ等の古典映画修復に従事したが、94年ふたたび映画に戻り、同年『記憶の扉』を作る。98年映画への貢献により、イタリア政府から勲章コメンダトーレを授勲。『海の上のピアニスト』(99)の後、自身の想いをこめて監督したのが『マレーナ』(2000)である。